日時 2012.6.9
展示タイトル(期間):空間越え(2012.6.2.-6.10)
展示作家:宮坂直樹
参加者(敬称略):バート・ベンショップ&レオンティン・リーフェリング(エアー1)、村田弘子、村田達彦
司会:進藤詩子
参加者(敬称略):バート・ベンショップ&レオンティン・リーフェリング(エアー1)、村田弘子、村田達彦
司会:進藤詩子
記録:椛田有理
<作家による展示解説>
<作家による展示解説>
“研究”発表の場であるというスタンスで、独自に拡大解釈した意味での“空間”への関係性を研究・発表している。ここで言う“空間”とは、人間は常に知覚的に空間体験をしている、という文脈での空間であり、宮坂の”空間越え”という展示タイトルは知覚的な経験に依らない空間体験、つまりは知覚への依存からの離脱を目指すものである。
展示に際しては、一つの大きなオブジェクトを主体に補足的な作品群―展示マケット、展開図、設置したカメラからのリアルタイムな映像など―を小部屋に展開し、「説明的」な構成を心がけられている。会場のマテリアル、建築的比率から作られたコンクリートのオブジェクトの上部にはカメラが取り付けられているが、それはオブジェクトのエッジの直線上に配してあるため、ディスプレイに映し出される像は最上部の平滑な面のみである。また、カメラを使用する理由として、人間の近く機能の外を捉えるからというよりは、人間の知覚機能の延長として使用されている道具だからである。スポットライト等による人工光は排し、自然光のみの見せ方を採用しているが、それは建築空間内に於ける光・人の通り道という観点をより強調する。
<意見交換>
弘子:カメラという媒体を介しての光の捉え方や、場に合わせた立体というものは興味深い。克つて矢部史朗という作家が2003年に似た様な観点の仕事をしたことがある。宮坂の手法に比べ矢部は会場で作ったので微調整等が易かっただろう。
達彦:実験ギャラリーとしての機能を謳歌した、という所感。印象としては立体を用い“虚”を表そうとしている様に感じた。日本的な感覚だから、“空間越え”は英訳が難かったのではないか。また、カメラの扱いがふざけていて面白い。まるで何も映していないようだ。(天頂部が開口しているという前提で→しかし閉じられていた)
Bart:カメラのパースペクティブを意識して用いているようだが、結果的に見せているのはフラットな天頂部だけなのか。立体の稜線を映したりはしないのか。
Leontine;説明的なパートもメインである立体と一体となった展示となっている様に思う。また、それぞれもつ静的/動的などの多様な要素がこの展示をリッチなものにしているように感じる。しかし当初の計画では別物であったようだが、その点についてはどうだったか。
Leontine;説明的なパートもメインである立体と一体となった展示となっている様に思う。また、それぞれもつ静的/動的などの多様な要素がこの展示をリッチなものにしているように感じる。しかし当初の計画では別物であったようだが、その点についてはどうだったか。
宮坂:この展示は鑑賞の為ではなく、説明する為の場であると考えている。だからこそ“研究”という言い方を用いているのだが、しかし結果的には“美術的”にまとめあげた感はある。
宮坂:ギャラリーという建築空間はかなりミニマルであるため、考え易かった、というのはある。しかし正直「ギャラリーはアートを鑑賞するところ」という点については失念していた。
Bart:研究成果報告書のようなものは作成するのか。(→作成する事に)
椛田:“研究発表”というスタンスであるならば、たとえば学会での発表などのほうがストイックであるように思えるが、その“美術的”な方向へのブレが結局のところ展覧会を成り立たせている様にも思える。
宮坂:自分の“研究発表”とは具体的なモノで提示する事が重要であるため、プレゼンテーションのみという在り方は好ましくないだろう。
進藤;世界的な現象として、こうした“研究”という在り方、従来の”展示”という在り方への懐疑があるが、日本の作家のそうした活動を見れた事は興味深い。
達彦;200Kgの作品が与える床への影響がシンパイ。
記録後記
今回のセッション参加人員は遊工房スタッフとレジデンスアーティストと作家本人という最小に近い単位での開催だったが、コンパクトなぶん十分な意見交換を行うことができたという感触。とはいえBartとLeontineの積極性と、作家の話が論理的であった事は潤滑な進行に大きく貢献しているため、一概に一般論化は出来ないだろう。